2024年5月10日5件]

戴き物  のページをようやく整備することができました。とっても大切な宝物なのでそれを飾っておく宝箱が欲しかった。ありがとうございます!
自分で撮ったフィルム写真の中から、イメージに合いそうなものを選んでサムネイルも作ってみました。折句のサムネイルに使った植物ってヤツデそのものなんじゃないかと思ったんですけどどうだろう。かなり昔に散歩している最中道端で撮ったものです。

#サイトのこと

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更新:氷すい (戴き物)

lilyの織さんからいただいた短歌や文を 戴き物 のページにまとめました。本当に本当にありがとうございます!
こちらの文は2023年6月に私が描いた「 氷すい 」を見て織さんが書いてくださったものです。
あまりにも…良すぎて…夏の日の午後、こもれ日の中で氷すいを食べる薫とそれを慈しむ剣心が本当に良すぎてクラクラします…。涼やかでいとおしい情景描写が本当に大好きです。

#戴き物

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更新:六月二十日によせて。 (戴き物)

lilyの織さんからいただいた短歌や文を 戴き物 のページにまとめました。本当に本当にありがとうございます!
こちらの短歌「 六月二十日によせて。 」は2023年6月20日に私が描いた「 夜明けの先で 」を見た織さんが詠んでくださったものです。

朝凪のさなかに留め置きたくててのひらにてのひらを重ねる
長い夜が明けた先で巡り会った、というイメージで私は二人を描いていて、この絵を見て織さんから紡がれた一音一音がいとおしくてたまらないです。穏やかな余韻と叙情に満ちていて大好きです。
完全に私の勝手な感想ですが、朝凪って神谷道場という居場所、薫という帰る場所、そこで過ごす心休まる時間のことかなと感じています。

抜刀斎に居て欲しいって言ってるんじゃなくて
私は流浪人のあなたに居て欲――

#るろうに短歌 #戴き物

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更新:花筵 (戴き物)

lilyの織さんからいただいた短歌や文を 戴き物 のページにまとめました。本当に本当にありがとうございます!
こちらの短歌「 花筵 」は2022年9月28日に織さんに詠んでいただいたものです。
雪代巴/神谷薫/緋村剣心の3人のあいだにある名状しがたい関係性を詠んでくださっていて、立ち上がる情景に息をのみました。

花筵とは「草花などが一面に咲きそろったさま、また、桜などが一面に散りしくさまなどを筵にたとえていう語。(引用:コトバンク)」とのことです。
私なりに抱いた感想を下記に記します。

#るろうに短歌 #戴き物

残せないものなどなくて手のひらの上に崩れた雪はつめたい
巴って「あの日死んだ」ことだけが巴の全てではなくて、それまで精一杯生きたこと、人を憎み愛し不器用に生きたこと、そういう巴の人生が、本当は剣心の中に残っている。剣心自身も答を見つけるまでは巴が罪の象徴となってしまっていたけれど、そうじゃなくて、巴はちゃんと生きたんだ、ってことが剣心の中に在る。凍てついた時間ではなくて、指先に触れる、じんわり広がるつめたさ。「生きたこと」の名残として「つめたい」という言葉を置いている。悲劇だった、忌むべき過去だった、と帰結するのではない。
あの日たしかに腕の中で静かにつめたくなっていったけれど、巴の「生」は剣心の中に溶け残っている。



蝶も人も等しく花の香のたもと祈りのようにまぶたを降ろす
記憶と香りは密接に結びついていて、その香のたもとでは蝶の羽のように人もまぶたを降ろす。誰しも。
剣心の過去に、巴の過去に、思いを馳せる薫。語りたくない過去を語ってくれたこと。その過去は現在の剣心に地続きで繋がっている。薫が大切だとおもう、現在の『剣心』を形作っている。過ぎ去った時間を巻き戻すことはできないけれど、たしかに生きた巴を想う。人生は不可逆。だから、祈る。
蝶から想起される情景は昼で、「まぶたを降ろす」ところで夜の帳が降りて、そっと「おやすみ」という言う薫が目に浮かぶ。



木蓮を揺らした風が頬にふれ今日までの正しさを肯う
「今日までの正/しさを肯う(うべなう)」が、句跨ぎになっていて、この一首の中に流れる過去と現在に至るまでの時間感覚を手繰り寄せる感じがある。過去を見つめ、風が吹き、振り向く、その起点。言葉のリズムによって動作を与えているような。
頬にふれる風は薫。過ちを犯してきたけれど、剣心が今日まで生きてきたことは正しい。それを肯定して、今、生きていることをありのままに受け止めて、受容する。木蓮はいろんなものを内包した「生命」みたいな。どこか巴のようでもある。風がやさしくふれる。その風が、剣心の「生」を肯う。
許されないで終わるかもしれない、報われない人生になるかもしれない。
それでも、生きて、その人生を完遂しようとする剣心。
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更新:折句 緋村剣心/神谷薫 (戴き物)

lilyの織さんからいただいた短歌や文を 戴き物 のページにまとめました。本当に本当にありがとうございます!
こちらの短歌「 折句 緋村剣心/神谷薫 」は2022年7月28日に織さんに詠んでいただいたものです。詳しい経緯と感想は以前WEBオンリー浪漫博覧会での無配で書いたので、下記に再録します。
折句、というものを初めて知ったのですが本当に凄過ぎて感激しまくりました。
今も私のスマホの待受はこの二首です。

#るろうに短歌 #戴き物

緋村剣心/神谷薫
 この二人の名前で折句を詠んでもらったのが二〇二二年七月二八日のことだった。
 朝まどろみながら習慣的に開いたツイッターに折句二首が投稿されていて、昨夜リクエストしたばかりのものがもう掌の中にあるという驚きがまず最初にあった。
 三十一音の中に「ひむらけんしん」「かみやかおる」の名前を折り込んで短歌を作る。私にはどう逆立ちしてもこの二首のような配列を組み立てることができないし、ただ名前の文字が組み込まれているだけではなく、三十一音の響きが生み出す奥行きと膨らみは同じことを私が千字で説明するよりも遥かに実態を伴って胸に迫る。

 ひ 日を生きて
 む 群れる子と遠
 ら 雷を聴く
 けん けんけんぱあは
 しん 真摯な歩み

 剣をそのまま『剣』で繋げないことの凄さ。『剣』から「けんけんぱあ」という言葉を手繰り寄せている上に、それは彼が守りたいと望んだ平和な時間そのものであるように思う。その日一日を生きることの尊さを噛み締めながら、子が群れ笑い熱心に遊びに耽る様子を慈しみ眺めている様がここに在る。「遠雷」で、夏の匂いが立ち込める。夕立が来そうだから、そろそろ帰ろうか、と微笑む彼が居る。
 何しろ「遠雷」のところのリズムがいい。そう伝えたら「句跨ぎ」という技法であることを教えてもらった。一つの熟語が句を跨いでいることで五七五七七のリズムの中にまた別の動きが生まれるような心地よさがあるように感じる。声に出して読むとさらに一音一音いとおしさが込み上げてくる。

 かみ 髪にふれ
 や ヤツデも花に
 か 変わること
 お 教えてあげて
 る 流浪のあとに

 ここでの「ヤツデ」は、庭木として日常にありふれた植物、しかしそこに帯びる日陰のイメージ、花が咲かなそうなイメージをこれまでの『剣術』に見立てているのではないかと私は解釈していて、そのヤツデを選び取ったことにまた感動している。
 髪に触れられる、その二人の距離感。ヤツデも花に変わること。人を斬らずに人を守る道、人を活かす剣にやがて変わっていってほしいという彼の願いを体現しようとする彼女。長く孤独な流浪の果てに辿り着いた「ただいま」と言える場所で、ひたむきに生きる彼女のその生き様で、教えてあげて、と。

 この二首に限らず、織さんの言葉が描く情景が好きだ。合同誌に収録したほかの六首はさらに抽象的で、それゆえに普遍性のある六首であるように思う。直接的にるろうに剣心だと説明するようなものではなく、あらゆる瞬間が光って浮かび、ゆっくりと焦点が結ばれる。目を瞑った時に網膜の中にチカチカ光って見える風景のようだと思った。いつかの、誰かの。そういう風景が私に流れ込んでくる。
 合同誌タイトル「愛されていたことだけわかる」も繰り返し読めば読むほど、なんて静謐な心象風景の中に優しい波紋を広げるような響きをもつ言葉なんだと震えた。時間や空間を超えてふと誰かが立ち止まり振り返るような視線の動きを感じる。

私の好きな宮沢賢治の『注文の多い料理店』序にこんな文章がある。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
 織さんの言葉も私にとっての「すきとおったほんとうのたべもの」だと思う。この本を手に取ってくださった誰かにとってもそうなってもらえたら、どんなにさいわいかわからない。


引用
宮沢賢治「注文の多い料理店」新潮文庫

※あくまで私(ひさみね)の個人的な感想であり、短歌の解釈を一つに定めるものではありません。
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